『レディ・プレイヤー1』

レディ・プレイヤー1』Ready Player One(スティーヴン・スピルバーグ Steven Spielberg
スピルバーグがこんなタイトルの映画を作っているということくらいしか知らずに、映画館で予告を見た時は、「ジャンプ」が流れて、何事かと思った。

どうしても『コングレス未来学会議』とダブるね。

こんなゲームをする中高年を気持ち良くさせるような甘やかすような映画が作られてしまっていいのだろうか、というのが最初の感想。どんな人も別に全然気持ち良くなってもらって結構なのに、自分だって甘やかされていいはずなのに、なんとなく少し申し訳ないような後ろめたいような気にさせるのはなぜだろう。

どんなにお金が無くて荒んだ環境でもユースカルチャーは生まれるものだろうと思ってしまうあたしは甘いようで、未来の若者の主人公らが、曽祖父くらい(?)の頃の文化を勉強したり楽しんだりしている世界には、ものすごく気が滅入る。

主人公は、女の子の顔の痣について「気にしない」というけれど、自分もアバターと全然違う姿をしているのに相手にどう思われるか心配していない様子はなんなのか、自分はヴァーチャルな世界で友達もガールフレンドも作っておいて最後のアレはなんなんだ、とか、世界中の人々に自分の人生の細かい所まで知ってもらおうとするハリデーって怖いな、とも思う。昔、Apple製品のディーラーになるのに、ジョブズとウォズニアックの出会いとかApple社の歴史などの講習を受けさせられるのを思い出した。

数多くの登場する固有名詞に関しては、全然詳しくないし知らない物や気付いていない物も多いのだろうけれど、それでも楽しんだので、「若い人は分かるんだろうか、楽しめるんだろうか」と言われると、そういうの、よく言われた身からすると、ちょっと失礼な感じだし、よく知らない物が沢山出てきても面白いものは楽しめたりすると思うよって返事したくなる。

それで、中高年を気持ち良くさせる、に戻ると、主人公とその仲間が皆わりと若いことも引っかかっていて、ヴァーチャルな世界でも運動能力、体力、若さが大事なのかな、とか、こんな昔の物であふれた世界を描いているけれど、世界は若者のものだというメッセージなのか、などと思いつつ、若者が主人公の話にすんなり入って行けて、さらに自分のこどもの頃や若い頃の物にキャッキャさせられて楽しんでしまうけれど、頭の中ではいつまでも自分が子供のままの中高年、ということを見る側につきつけられているような、なんだかこの映画自体が、中高年の誰かが寝ている間に見た夢、みたいなオチがありそうな、そんな感じもしてきてしまう。

少しずれるけれど、以前ジェイ・アッシャーの『6日目の未来』を読んだ時に、「90年代のヒット曲と共に綴られる」って、高校生が主人公のYA小説でも、それを読みたいのって中年じゃないの? って思って、同じくジェイ・アッシャー原作の『13の理由』のドラマでは高校生の一人の部屋にラモーンズジョイ・ディヴィジョンのポスターが貼ってあるのも、その人の個性を表していて、もちろんそういう人もいるだろうけれど、上の世代の人が自分たちの好物を盛り込んで作ったような作品を、若い人は楽しんでいるのか、うっすらと不安にもなる。『13の理由』の方は大丈夫だと思うけど。

劇場を出て帰り道ずっとしゃべりっぱなしだったし、誰かと見に行ってその後で食事なら、話題には全然困らないのではないかしら。誰かが試してみてもおかしくないだろうに、最初の鍵を手に入れるまでに何年もかかるなんて、未来の人類、まずくないか、と言われたのには笑った。

それから、クスクスがあるしパセリやセロリを刻んで入れたサラダが食べたくて、ちょうど出掛ける前にレシピを探していたら、映画の中で、好きじゃないと言われるとは思わなかった。