『シェイプ・オブ・ウォーター』

シェイプ・オブ・ウォーター』The Shape of Water(ギレルモ・デル・トロ Guillermo del Toro)
ひと月以上前に見に行った。『パンズ・ラビリンス』も『デビルズ・バックボーン』も引っかかるところがあって、以来彼の作品はたぶん見ていなかった。でも、これは半魚人の映画なので人魚の仲間かということで。
マイケル・シャノンの一人芝居の舞台を見たような気分になるのは、彼のあくが強いのもあるけれど、他の人がふわふわぼやぼや描かれているのに、彼だけ妙に具体的に描かれて、嫌いな人についてはつい分析してしまうからか、悪役にもそうなる背景があるということなのか、なぜそうなったのかよく分からない。
やはり、この監督は、あたしには合わない気がする。何が引っかかるのか、しばらくずっと考えていた。なぜか『フィフス・エレメント』を思い出したのだけれど、これも子どもの頃に考えたお話だったりするのかしら。たぶんしっかりお金をかけて絵的にはきっちり作っているのに、話が、登場人物が皆そろってあほみたいで、ストレスになるからかも。あたし自身毎日後悔や反省の連続だし、人は最善の選択ばかりするわけでないことは当然理解しているし、「押してはいけない」というボタンを押す人が実際にいるし、フィクションも障害が無いと盛り上がらないかもしれない。でも、皆そろってなんだもの。
主人公と半魚人は心を通わせているようには見えなくて、主人公が「心を通わせている」と思い込むのも、片想いの話でも全然構わないし、最後は友人の妄想だからそれも構わないけれど、二人が水中で抱き合うポスターで、これを素直に愛の話とされると、違和感。半魚人の気持ちを勝手に都合良く解釈するのは、ちょっとまずい気がする。
共同住宅で、洗濯機の水をあふれさせたりして、下の部屋に水を漏らしたり、上から漏らされたりしたのは知人にも何人かいるし、バスルームを水で満たす場面では、本などのコレクションのある人は発狂しそうにならなかった? あたしは倒れそうだった。物が水浸しになる恐怖を置いておいても、ばれたらまずいことになるのに、おとなしく目立たなくしていられない、自分の状況が分かっていないような主人公に、この場面以外でも苛立って、疲れた。
このバスルームの場面は、水漏れ以外にも、二人の意思の疎通が出来ていると思えていないからか、あまり気分の良いものではなかった。力関係が圧倒的に主人公の方が強い状況で、半魚人と対等ではないし、両方とも人間で男女が逆だった場合、助けた見返りを求めてるよくある図のようで、それは男女が逆になったこの映画でも、なんというかグロテスク。その行為について人間側が友人らと笑って共有しているのが余計に厭な気がする。
クリーチャーの造形みたいなものにほとんど関心が無くて、あたしの中に、そういう部分の楽しみが無いというのもあるかもしれない。